战国与希腊:中西方文明根性之比较(中日)

2020-12-07重要概念范畴表述外译发布平台

战国与希腊:中西方文明根性之比较

戦国時代とギリシャ: 中国と西洋の文明の根源の比較

中央社会主义学院党组书记、第一副院长潘岳

中央社会主義学院党グループ書記、第一副院長潘岳

导读

百年未有之大变局下,中国和西方又一次站在了解彼此的十字路口。在文明层面,双方的了解却远远不够,甚至存在误解。那么,中西文明的“根性”究竟有何不同?

中央社会主义学院党组书记、第一副院长潘岳认为,战国和古希腊在同时期相似的历史条件下,出现了不同的历史结果。二者都面临纷争战乱,而后也都出现了由军事强大的边缘国家所主导的统一运动,但希腊终未真正统一,而战国却走向了大一统的秦汉时代,且整整延续两千余年。他认为,希腊古典文明和中华古典文明各成体系、互有分殊,最重要的就是统与分的不同根性,以及由此塑造的两种不同道路:西方走向分,其间虽有统一努力(如罗马、基督教),但以分为主,最终归于个人主义和自由主义。中国走向合,其间也有分离时期(如王朝更替、游牧民族冲击),但以合为主,造就了集体主义。

这种不同,演变为当今时代的突出矛盾:是“自由优先”还是“秩序优先”?潘岳认为,问 题不是在自由和秩序中二选一,而是在哪个环节加强自由,在哪个环节加强秩序,从而既防止瓦解、又激活创新。

今天,中国和西方又一次站在理解彼此的十字路口。

现代文明中蕴含着古典文明的精神基因。欧美和古希腊古罗马文明;伊斯兰世界和阿拉伯文明;伊朗与波斯文明;俄罗斯和东正教文明;以色列和犹太文明。种种关系连着种种基因演化成种种道路。

现代欧美文明认为自己的政治秩序,是融合古希腊文明、古罗马文明、基督教文明和工业文明的精髓为一体。其中,古希腊文明是源中之源。现代中国的道路,建立在中华文明的遗产之上。中华文明的稳固形态确立于秦汉,演变之关键处在战国。

从公元前五世纪到三世纪,战国与古希腊面临着相似的历史境地。都陷入了内部极度战乱;战乱中都出现了统一运动;统一运动的积极力量都不是核心圈国家,而是军事强大的边缘国家;大批知识分子为统一运动上下奔走,提出了大量哲学、政治、道德命题。

而统一运动的结果不同。希腊形成了亚历山大帝国,仅7年即分裂,其后三大继承者王国内 斗100年,被罗马逐一兼并。战国形成了大一统秦王朝,虽14年后崩溃,但很快就再次兴起了大一统汉王朝。秦汉制度被历代王朝所继承,整整延续2000余年。

相似的历史条件下出现的不同结果,这因为不同的文明根性。

総説

百年ぶりの大きな変化の下で、中国と西洋は再び相互理解の岐路に立つようになった。文明の面において、双方の理解はまだまだ不十分であり、誤解さえある。では、中国文明と西洋文明の「本質」は結局どう違うのだろうか。

中央社会主義学院党グループ書記、第一副院長の潘岳氏は、同時期の似通った歴史的条件の下で、戦国時代と古代ギリシャには異なる歴史的結果がもたらされたと考えている。両者は共に紛争と戦乱に直面し、その後軍事力の強い周辺国主導での統一運働も起こったが、結局ギリシャでは本格的な統一には至らず、戦国時代は大一統の秦・漢時代に向かい、しかもそれは二千年余りも続いた。彼はギリシャ古典文明と中華古典文明が各自のシステムを形成しており、互いに違いがあるものの、最も重要なのは統一と分割における異なった根源的な性質、およびそれによって形成された二つの異なる道であると考えている。西洋は分裂の道に向かい、その過程においては統一に向けた取り組み(ローマ、キリスト教など)もあったが、主には分裂状態が続き、最終的には個人主義と自由主義に向かった。中国は統一に向かい、その過程においては分離の時期(例えば王朝の交代、遊牧民族による攻撃)もあったが、やはり統一を主として、集団主義を形成した。

このような違いは、「自由優先」なのか「秩序優先」なのかという現代の矛盾を浮き彫りにした。その課題は自由と秩序の中での二者択一ではなく、どの段階で自由を強化し、どの段階で秩序を強化するかによって、崩壊を防止し、革新を活性化させるかということだと潘岳氏は考えている。

今日、中国と西洋は再び相互理解の岐路に立っている。

現代文明には古代文明の精神的遺伝子が含まれている。欧米と古代ギリシャ・ローマ文明、イスラム世界とアラブ文明、イランとペルシア文明、ロシアと東方正教文明、イスラエルとユダヤ文明。様々な関係は様々な遺伝子と繋がり、様々な道を作り出した。

現代の欧米文明は自分達の政治秩序が古代ギリシャ文明、古代ローマ文明、キリスト教文明、産業文明の真髄を融合したと考えている。その中でも、最も根源的なのは古代ギリシャ文明である。現代の中国の道は、中華文明の遺産の上に作られたものである。中華文明の堅固な形態は秦・漢時代に確立されたもので、その進化のポイントとなる時期は戦国時代である。

紀元前5~3世紀、戦国時代は古代ギリシャと似たような歴史的状況にあった。どちらも極めて深刻な国内の戦乱の時期に入っており、戦乱の中で統一の動きが起こった。また統一運動の積極的な勢力は中核国ではなく、軍事力の強い周辺国であった。多くの知識人が統一運動のために奔走し、大量の哲学・政治・道徳の命題を提起した。

しかし、統一運動の結果は異なっていた。ギリシャではアレクサンドロス大王の帝国が形成されたが、わずか7年で分裂し、その後は三大継承王国の100年にわたる内戦が続き、ローマに一つずつ呑み込まれていった。一方、戦国時代は大一統(全国統一)の秦王朝を形成し、14年後に崩壊したが、すぐに再び大一統の漢王朝が興った。秦・漢の制度は歴代王朝に受け継がれ、2000年余り続いた。

似たような歴史的条件の下で異なる結果がもたらされたのは、文明の本質的な性質が異なっていたからだ。

战国:从分立到大一统

(一)被误读的“百家争鸣”

1975年12月,湖北云梦出土了书满秦法的“睡虎地秦简”。在一堆法家书简中竟发现一篇充满儒家精神的官吏培训教材《为吏之道》:“宽俗忠信,悔过勿重,和平勿怨,慈下勿陵,敬上勿犯,听谏勿塞”。这并非孤例。王家台秦简、岳麓秦简、北大秦简也有类似文字,说明秦朝后期 己不完全排斥儒家。

不仅秦国,其他六国也一样。通常认为专属秦国的法家制度和精耕农业,实际是魏国发明的;通常认为自由散漫的楚国,实行“县制”比秦国还早;通常认为商业发达的齐国,其《管子》中也含有与秦相似的“保甲连坐”元素。

可见,儒法交织,刑德同用,是战国晚期的整体潮流。各国政治观念的底线就是“一天下”。

谁也不甘于小区域的分治,都要去争夺完整的天下。不是争要不要统一,而是争由谁来统一。对 整体“天下”的执着,是历代中国政治家群体最为独特之处。

思想家们也是如此。人们只注重百家争鸣的“争”,却往往忽视了它的“融”。几十年来陆续出土的战国简帛印证了“诸家杂糅”的现实。郭店简中,可以看到儒家与道家混同;上博简中,可以看到儒家与墨家混同;马王堆帛书中,可以看到道家与法家混同。“德”不为孔孟独享,“道” 不为老庄专有,“法”不由商韩把持。诸子百家思想融合的宗旨就是建立“统一秩序”。儒家强调 “定于一”的礼乐道德秩序,法家强调“车同轨、书同文”的权力法律秩序,墨家强调“尚同” 与“执一”的社会层级秩序。极端强调自由的道家也如此,老子的“小国寡民”之上还有“天下” 与“天下王”庄子也强调“万物虽多,其治一也”。

战国成为思想制度的熔炉。秦国的法家贡献了大一统的基层政权;鲁国的儒家贡献了大一统 的道德秩序;楚国的道家贡献了自由精神;齐国将道家与法家结合,产生了无为而治的“黄老之术”和以市场调节财富的“管子之学”魏韩贡献了纵横外交的战略学,赵燕贡献了骑兵步兵合体的军事制度,如此等等。最后的结果,就是汉朝。

大一统,不是秦并了天下,而是天下消化了秦。

戦国時代:分立から大一統へ

(一)誤読された「百家争鳴」

1975年12月、湖北省の雲夢県で秦の法律を記した「睡虎地秦簡」が出土した。法家の書簡の山からは意外にも「寛俗にして忠信、悔過して重ぬることなく、和平にして怨みなく、下を慈りて陵すことなかれ。上を敬して犯すことなく、諌を聴きて塞ぐことなかれ」との儒家精神に満ちた官吏養成教材の『為吏之道』が見つかった。この一例だけではない。王家台秦簡、岳麓秦簡、北京大学秦簡にも同様の文言があり、秦王朝の後期にはもう完全に儒教を排除していなかったことを示している。

秦だけでなく、他の六国も同様であった。秦に限られていたと一般的に考えられていた法家制度や入念に耕作する農業は、実は魏国の発明だった。自由でまとまりがなかったと一般的に考えられている楚国は、秦よりも早く「県制」を実施していた。商業が発達していたと一般的に考えられている斉の『管子』にも秦と似通った「保甲(行政の末端組織)の連座」の要素が含まれていた。

このように儒家と法家を織り交ぜ、刑罰と徳化を共に用いることが戦国時代末期の全体的な傾向だったことが分かる。各国の政治観念のベースラインは「一つの天下」だった。誰も小さな地域を分割して統治することに甘んじず、完全な天下を奪取しようとした。統一が必要なのかどうかを争うのではなく、誰が統一するかを争った。「天下」全体に対する執着は、中国の歴代政治家集団の最も独特な部分である。

思想家達もそうだった。人々は百家争鳴の「争」だけに注目し、往々にしてその「融」を軽視してきた。数十年にわたって次々と出土してきた戦国時代の竹簡と帛書(絹に書かれた文書)は、「諸家雑糅(入り交じる)」だった史実を証明している。郭店簡からは儒家と道家を同列に扱っていたことが見て取れる。上海博物館蔵の書簡からは儒家と墨家を同列に扱っていたことが見て取れる。馬王堆帛書からは道家と法家を同列に扱っていたことが見て取れる。「徳」は孔子と孟子の独占ではなく、「道」は老子と荘子の専有ではなく、「法」は商鞅と韓非の独り占めではなかった。諸子百家の思想的融合の主旨は「統一的な秩序」の確立だ。儒家は「一に定まる」という礼楽(社会秩序を保つ礼と人心を感化する楽)の道徳秩序を強調し、法家は「同文同軌(文字と車輪の幅の統一)」の権力・法律秩序を強調し、墨家は「尚同(人々が一つの価値基準に従うことで社会を繁栄させる)」「一を執る」という社会階層秩序を強調した。極端に自由を強調する道家も同じで、老子の「小国寡民」の上には「天下」と「天下王」がある。荘子も「万物多しと雖も其の治は一なり」と強調した。

戦国時代は思想・制度の鍛錬の場になっていた。秦国の法家は大一統の基礎となる政権で貢献し、魯国の儒家は大一統の道徳秩序で貢献し、楚国の道家は自由な精神で貢献し、斉国は道家と法家を結び付け、無為にして治まる「黄老の術」と、市場によって富を調節する「管子の学」を生み出し、魏・韓は合従連衡外交の戦略学で貢献し、趙・燕は騎兵と歩兵を融合した軍事制度で貢献した。その最終的な結果が漢朝だ。

大一統は秦が天下を併呑したのではなく、天下が秦を吸収したのだ。

(二)秦的崛起与荀子之辩

战国最后50年。志士谋臣们分成两大派。函谷关内的秦国,活跃着法家与纵横家;函谷关外的六国,活跃着儒家、道家、兵家、阴阳家、刑名家。齐国的稷下学宫是东方六国知识分子的聚集地,是与秦国对峙的另一个精神世界。这个精神世界的领袖,就是战国最后一位儒家大师、三任稷下学宫祭酒的荀子。

前269至262年之间,60多岁的荀子竟然入秦考察。他并没有如传统儒家那样骂秦政是暴政,反而赞扬了秦的法家治理制度:秦的基层小吏忠诚勤俭,办事尽心,像古代的官吏;秦的高级官员,不搞朋党,贤明而有公心,像古代的士大夫;秦的朝廷,处理政事速度极快,没有积存的事务,像古代的朝廷。在儒家的话语体系中,“古之治”就是古代圣王的治理。对秦政如此高的评价竟出自儒家大师之口。

不过,荀子还说了一句更重要的话。他认为,秦国虽有此优势,但依然没能达到“王者”的 境界,原因是缺“儒”,“殆无儒邪”。怎样才算是“有儒”呢?荀子建议“节威反文”,用君子治天下。这是后世“王权与士大夫共治天下”的雏形。

荀子认识到,儒家虽然有着统一的道德秩序,但没有建立统一的治理体系。法家虽然能建立 统一的治理体系,却在精神道义上有着极大缺陷。如果秦国的法家制度,加上儒家的贤能政治与信义仁爱,才能成为未来天下正道。

对这番话,秦王没有理会。

几年之后的长平之战,印证了荀子的话。秦国在赵军投降之后,背信坑杀了 40万赵军。即便在血流成河的战国,这也突破了道义的底线。秦国从来靠现实主义与功利主义取天下,又岂会用仁义道德自缚手脚。

没有力量的道义和没有道义的力量,都不能回答眼前的现实。

(二)秦の台頭と荀子の議論

戦国時代最後の50年間、志士と謀臣達は2つの主要な派閥に分かれていた。函谷関の内側の秦国では法家や縦横家が活躍し、函谷関の外側の六国では儒家・道家・兵家・陰陽家・名家が活躍した。斉国の稷下学宮は東方六国の知識人が集まる場所で、秦国と対峙するもう一つの精神世界だった。この精神世界のリーダーは戦国時代最後の儒家の大家で、三度稷下学宮の祭酒を務めた荀子であった。

紀元前269~262年、60代の荀子は秦を視察した。彼は伝統的な儒家のように秦国の政治を暴政だと罵ることはしなかった。逆に秦国の法家の管理制度を称賛し、末端の役人は古代の官吏のようで、忠実・勤倹で、心を尽くして仕事をしていると、高級官吏は古代の士大夫のようで、グループを作らず、賢明で公徳心を持っていると、朝廷は古代の朝廷のようで、政務の処理が効率的で、山積みになった事務がないと褒めた。儒家の言葉の中で、「古の治」は古代の聖王の統治である。秦国の政治に対するこのような高い評価は儒家の大師の口から出てきたものである。

しかし、荀子はもっと重要なことを話した。秦国にはこのような優位性があるが、依然として「王者」の域までには達しておらず、その原因は「儒」の欠如で、「儒教がない」ためである。ではどうすれば「儒」があるといえるのか。荀子は「威を節して文に反る(武力を抑えて礼儀の政治に立ち戻る)」こと、君子を用いて天下を治めることをを提案した。これが後世の「王権が士大夫と天下を共治す」のひな型となった。

荀子は、儒家は統一的な道徳秩序を持っているが、統一的な統治体系を確立していなかったことを認識した。法家は統一的な統治体系を確立できたが、精神的な道義に大きな欠陥があった。もし秦国の法家制度に儒家の賢能政治や信義仁愛が加われば、将来の天下の正道になれる。

秦王はこの話に取り合わなかった。

数年後の長平の戦いは荀子の言葉を裏付けた。秦は趙軍が降伏した後、信義に背いて40万人の趙軍を生き埋めにして殺した。たとえ血の雨を降らす戦国時代であっても、これは道義の基準線を踏み越えている。秦は終始現実主義と功利主義を以て天下を取ってきたため、仁義と道徳で手足を縛るはずがなかった。

力のない道義も、道義のない力も、共に目の前の現実には答えられない。

(三)法家与儒家都不能少

长平之战后,荀子放弃了政治,著书立说、教学授徒。

他的思想体系与孟子的纯粹儒学不同。孟子的“天”是惩恶扬善的义理之天,而荀子的“天” 是天行有常,不为尧存不为桀亡,因此要“制天命而用之”,这是中国最早的唯物主义。孟子崇尚王道鄙视霸道,而荀子认为应该王霸兼用。孟子只谈义不谈利,荀子却要义利兼顾。孟子崇尚 法先王,而荀子认为应该法后王。

他教出了两个大有名气的学生,一个是韩非,一个是李斯。他们学成后双双入秦大展宏图,荀子却为此悲而不食。因为他们不但没有融合儒法,反而将法家发展到了极致。韩非的法家理论囊括了法、术、势等三大流派;李斯则设计了法家的全部政策体系,“焚书坑儒”就是他建议的。他们都忘记了,老师荀子虽然肯定法家手段,却始终坚持着儒家价值观一一比如忠义孝悌的伦理; 比如从道不从君、从义不从父的士大夫精神;比如政治以王道为根本,用兵以仁义为优先。法家和儒家,是对立统一的关系,哪一个都不能少。如果没有法家,儒家不能完成结构化和组织化,无法实现对基层社会的动员,无法在大争之世自我强化。但如果没有儒家,法家将变成不受约束的力量,其威权体系只是完全标准化、垂直化、同质化的执行体系。

何况荀学并非只有儒法。《史记》言荀子之思想乃是总结儒、墨、道家的成功失败汇聚而成 一一 “推儒、墨、道德之行事兴坏,序列著数万言以卒”。

荀学最好地体现了中华文明在面临巨大困境和矛盾时的包容精神。因为它遵循“中道”。中道的标准只在有益于事理,不必遵从于某种特定教条。用今天的话来说,就是“实事求是”。“凡事行,有益于理者立之,无益于理者废之,夫是之为中事。凡知说,有益于理者为之,无益于理者舍之,为中说。事行失中谓之奸道。”建立于实事求是基础上的中道精神,使中华文明最善于 包容完全相反的矛盾体,最善于结合看似不可能的矛盾体,最善于使一切“非此即彼”的事物和谐共生。

(三)法家も儒家も不可欠だ

長平の戦いの後、荀子は政治を放棄し、弟子を育成して、教育に携わった。

彼の思想体系は孟子の純粋な儒学とは異なっていた。孟子の「天」は勧善懲悪の義理の天で、荀子の「天」は「天行、常有り。堯の為に存せず、桀の為に亡びず」であったため、「天命を制して之れを用ふ」必要があった。これは中国最初の唯物主義だった。孟子は王道を尊重して覇道を軽蔑したが、荀子は王と覇を併用すべきだと考えた。孟子は義だけを語って利を語らなかったが、荀子は義と利を両立させようとした。孟子は「先王の道(古代の君主を理想像とする考え方)」を尊重したが、荀子は「後王の道(現在の君主の政策に従うべきだという考え方)」を尊重した。

荀子は非常に有名な2人の弟子を教えた。一人は韓非で、もう一人は李斯である。学業を終えた後、二人とも秦に行って遠大な計画を巡らしたが、荀子はそのことを悲しんで食事も取らなかった。彼らは儒と法を融合させなかっただけでなく、かえって法家を極限まで発展させたからだ。韓非の法家理論は法・術・勢の3大流派を網羅していた。一方、李斯は法家の全ての政策体系を設計し、「焚書坑儒」は彼が提案したものだった。師の荀子は法家の手段を肯定しているものの、終始一貫して儒家の価値観を堅持していたことを彼らは忘れていた。その価値観は、例えば忠義と孝悌の倫理であり、「道に従ひて君に従はず、義に従ひて父に従はず」の士大夫精神であり、政治は王道を根本とし、用兵は仁義を優先するという考えである。法家と儒家は対立して一つになる関係で、どちらも欠けてはいけない。もし法家がなければ、儒家は構造化と組織化を達成できず、末端社会への働き掛けを実現できず、大戦の世で自らを強化できなかった。しかし、もし儒家がなければ、法家制約を受けない勢力となり、その権威体系は完全に標準化、垂直化、同質化した執行体系にすぎなくなってしまっていた。

ましてや荀学は決して儒法だけではなかった。「儒墨道徳の行事・興壊を推し、数万言を序列して卒す。」と「史記」に記されているように、荀子の思想はまさに儒家・墨家・道家の成功と失敗を集成したものである。

荀学は中華文明が巨大な苦境と矛盾に直面した時の包容の精神を最もよく体現している。「中道」に従っているからだ。中道の標準は事の道理に有益だという点だけにあり、ある特定の教条に従う必要はない。今日の言葉でいえば、「実事求是」だ。「凡そ事行の理に益有る者は之れを立て、理に益無き者は之れを廃す。夫れ是れを之れ中事と謂ふ。凡そ知説の理に益有る者は之れを為し、理に益無き者は之れを捨つ。夫れ是れを之れ中説と謂ふ。事行中を失ふ、之れを奸事と謂ふ。知説中を失ふ、之れを奸道と謂ふ(事業と行動に有益なものは行い、無益なものは廃止する。これを中事という。知識と学説に有益なものは採用し、無益なものは捨てる。これを中説という。事業と行動が中事を失うことを奸事という。知識と学説が中説を失うことを奸道という)」。実事求是の基礎の上に確立された中道精神により、中華文明は完全に相反する矛盾を最も巧みに受け入れ、結合不可能に見える矛盾を最も巧みに結合させ、あらゆる二者択一の事物を最も巧みに調和、共生させる。

(四)荀子的正名与大一统中国的“秘密”

荀子终年90余岁。

他的思想太矛盾,以致他死后的境遇更为曲折。与孟子并称的他,却在儒家成为正统后的1800年里,从未被儒家各派推崇。900年后,韩愈为荀子辩解了几句,也连带着被宋明理学又批判了900年。

一直到清乾隆时,专攻考据的清代大儒们才发现,那些汉初儒学从灰烬中翻出来的根本大典,不论今文经学和古文经学,竟然全是荀子传下来的。如《春秋左传》《春秋谷梁传》,如《毛诗》《鲁诗》《韩诗》,如《大戴礼记》和《小戴礼记》。梁启超评价说,“汉代经师,不问今文家、古文家,皆出荀卿。二千年间,宗派屡变,一皆盘旋于荀子肘下”。

原来,在七国战火熊熊燃烧的最后30年,他一只手教出了法家奇才李斯与韩非,另一只手却默默书写传授着儒学。焚书坑儒后,只有他通过“私学”悄悄传下来的这批经典留存下来,而被汉儒复述重写。“盖自七十子之徒既殁,汉诸儒未兴,中更战国暴秦之乱,六艺之传赖以不绝者,荀卿也。”

一心改革经典的异端,却是最忠诚于经典之人。

行纯粹者易,行中道者难。随时要准备被两个极端所抛弃所夹击。即便如此,历史最终会沿着中道前进。汉武帝与汉宣帝接受了荀子思想,“礼法合一”、“儒法合治”,“汉家自有制度,以王霸道杂之”。接着,历代王朝也按照他的思想继续前行。只是因为他的“不纯粹”,所有王朝都 只用其实而不用其名。好在荀子只唯实不唯名。儒法由此真正合流。法家创造了中央集权郡县制和基层官僚系统,儒家则创造了士大夫精神和家国天下的集体主义伦理,在魏晋唐宋又融合了道家和佛家,创造了儒释道合一的精神世界。

这种超级稳定的大一统国家结构发散到整个东亚,成为中华文明强而不霸、弱而不分、延绵不断的秘密。之所以还称为“秘密”,是因为大多数西方学者至今仍未想了解。

(四)荀子の正名と大一統の中国の「秘密」

荀子は90歳すぎで亡くなった。

彼の思想はあまりにも矛盾していたため、死後の境遇はいっそう複雑になった。儒家が正統になった後の1800年間の中で、孟子と並び称された彼は儒家各派に尊重されたことが一度もなかった。900年後に、韓癒は荀子のためにすこし弁明したことで、巻き添えになって宋明理学にまた900年間も批判されることになった。

清の乾隆帝の時代になり、考証学を専門に研究する儒学の大学者たちはやっと、漢代初期の儒学者によって灰じんの中からよみがえった基礎的な重要文献が、今文経学と古文経学に関わらず、意外にも全て荀子の伝えたものだということに気付いた。例えば「春秋左氏伝」と「春秋穀梁伝」、「毛詩」や「魯詩」や「韓詩」、「大戴礼記」と「小戴礼記」などである。梁啓超は「漢の経師は今文家、古文家を問わず、みな根源には荀卿の思想がある。二千年の間、宗派は何度も変化してきたが、みな荀子の肘の下でぐるぐる回っているだけなのだ」と評価した。

もとより、戦火が燃え盛っていた戦国時代最後の30年、彼は一方では法家の奇才である李斯と韓非を育て、もう一方では黙々と儒学について記して伝授していたのだ。焚書坑儒以降、彼が「私学」を通じて密かに伝えたこれらの古典だけが残り、漢代の儒学者によって語られ、改めて書き記された。「蓋自七十子之徒既没、漢諸儒未興、中更戦国暴秦之乱、六芸之伝頼以後後を絶たず、荀卿も。(七十人の弟子が亡くなり、漢において儒教の諸流派は生じず、戦国時代の秦国による戦乱から、六芸が絶えず伝承できるようになったのは、荀卿のおかげである)」

古典を改革する異端者でありながら、古典に最も忠実な人である。

純粋なことを行うのは易しいが、中道を行うのは難しい。両極端のものに見捨てられ、挟み撃ちされることに常時備えていなければならない。それでも歴史は最終的には中道をたどる。漢の武帝と宣帝は荀子の「礼法合一」「儒法合治」「漢家には制度があり、王覇道を以ってこれを雑す」の思想を受け入れた。さらに、歴代王朝も彼の思想に基づいて進み続けた。ただし、彼の「不純さ」のため、すべての王朝はその名を出さずに事実だけを語った。折よく、事実だけを重んじ、名前を重視しないのが荀子だった。儒法はここで本当の意味での合流を果たした。法家は中央集権の郡県制と末端官僚組織をつくり出し、儒家は士大夫精神と家国天下の集団主義倫理をつくり出し、魏晋唐宋でまた道家と釈家(仏教)を融合し、儒釈道合一の精神世界を形作った。  

非常に安定したこのような大一統の国家構造は東アジア全体に広まり、中華文明が強くても覇を唱えず、弱くても分裂せず、延々と続いてきた秘密になった。これをまだ「秘密」と呼ぶのは、大多数の西洋の学者が今なお理解していないからだ。

希腊:成也城邦,败也城邦

(一)“大希腊主义”

公元前325年,亚历山大率领着征服了埃及和波斯的希腊雄师万里迢迢来到印度旁遮普邦比亚斯河畔。跨过河就是全印度乃至中国。他激情澎湃地鼓励将士们继续前进。而驮满沉甸甸战利品的战士们再也不想东进半步。亚历山大只好顺着河边的斜阳痛哭而返,两年后病死。

亚历山大的东征,来自希腊世界的统一运动。希腊统一运动来源于城邦危机。今天,西方深刻缅怀的希腊古典文明,其实只是雅典历史上的一小段,即伯利克里执政的黄金时期,代表着民主制度的最伟大成就。而这短短几十年黄金期后,希腊城邦世界就陷入无休止的恶性内斗。雅典和斯巴达竞相称霸,双方都曾血腥屠城。战乱之中,土地逐渐集中到富人手里,失去土地的贫民为了外邦的金钱变成了雇佣兵,转头攻打自己的城邦。

这种乱局持续了100年。乱局中诞生了一种呼声:各城邦不要再争抢彼此有限资源,应团结向外征服殖民波斯,如此希腊才会获得永久和平。

呼声最响亮的,一个是雅典头号雄辩家伊索克拉底,一个是希腊头号哲学家亚里士多德。

在发表于公元前380年的《泛希腊集会词》中,伊索克拉底说,“在我们从同一源泉获得利益、和同一敌人进行战斗之前,希腊人不可能和睦相处。” “为此,我们必须竭力使战争尽快从这里转入亚洲大陆(小亚细亚)。”

这个思路,近代历史学家称为“泛希腊主义”或“大希腊主义”。其根本动力,是解决土地缺乏、人口过剩的问题。传播希腊文明,只是附带产物。这成为后世西方殖民帝国主义的思想雏形。伊索克拉底是第一个提出殖民帝国主义的人。

但他呼吁了40年,雅典却因为内战派掌权而一直置若罔闻。继续打斯巴达,打底比斯,打马其顿,就是不愿意团结一起对外打波斯。

他最终放弃了雅典,公开呼吁希腊城邦世界的边缘国家马其顿国王腓力来统一希腊。他向腓力建议了一个著名的战略,“你要劝说其他的波斯总督摆脱波斯国王的束缚,前提就是你将给与他们‘自由’,并且还要将这种‘自由’惠及到亚细亚地区。因为‘自由’这个词一来到希腊世界,就导致了我们(雅典)的帝国和拉西第梦人(斯巴达)的帝国的瓦解。”(《致腓力辞》)

这些话,和后人对雅典自由民主的印象太不一样了。20年以后,腓力的儿子亚历山大正是按照伊索克拉底的战略思路,征服了埃及和波斯,建立了大希腊殖民帝国。但亚历山大的老师不是伊索克拉底,而是亚里士多德。亚里士多德在“大希腊”的道路上,比伊索克拉底走的更远。

ギリシャ:勝っても負けてもポリス(都市国家)のおかげ

(一)「大ギリシャ主義」

紀元前325年、アレクサンドロス大王はエジプトとペルシアを征服したギリシャの精兵を率いて、はるばるインドのパンジャーブ地域のビアース河畔にたどり着いた。川を渡ればインド全域、ひいては中国だ。彼は前進を続けるよう熱い思いで将兵を鼓舞したが、重い戦利品を積んだ戦士たちはそれ以上東へ進もうとしなかった。アレクサンドロス大王は河畔の夕日に向かって激しく泣き、引き返すほかなかった。彼は2年後に病死した。

アレクサンドロス大王の東征はギリシャで始まった統一運動である。ギリシャの統一運動はポリスの危機から生まれた。今日、西洋が深く懐かしむギリシャ古代文明は、実際のところ民主制度の最も偉大な業績を代表するアテネの歴史の一部、すなわちペリクレスが政治を行った黄金時代にすぎない。ごく短い数十年の黄金時代の後、ギリシャのポリスは絶え間ない内部抗争に陥っていた。アテネもスパルタも支配権を争い、双方ともに都市市民を大量に殺害して血生臭くしたことがあった。戦乱の中、土地は次第に富裕層に集中し、土地を失った貧民は外国の金銭を得るために傭兵となり、自分のポリスを攻めるようになった。

このような混乱した局面が100年も続いた。この難局の中で、各ポリスは互いの限られた資源を奪い合うのではなく、団結して外部に向い、ペルシアを征服して植民すべきで、そうすればギリシャは永遠の平和を獲得できるという声が出てきた。

最も高らかに声を上げたのはアテネ最高の雄弁家イソクラテスとギリシャ最高の哲学者アリストテレスである。

イソクラテスは紀元前380年に発表した「パネギュリコス(オリンピア大祭演説)」の中で、「同じ源泉から利益を得て、同じ敵と戦うまで、ギリシャ人は仲良くすることはできない」「そのため、私たちは戦争をできるだけ早くここからアジア大陸(小アジア)に移るように全力を尽さなければならない」と述べた。

現代の歴史学者はこの考え方を「汎ギリシャ主義」あるいは「大ギリシャ主義」と呼ぶ。その根本的な原動力は土地不足や人口過剰の問題の解決である。ギリシャ文明の伝播は単なる副産物にすぎなかった。これは後世の西洋における植民地帝国主義の思想のひな型となった。イソクラテスは植民地帝国主義を打ち出した最初の人物である。

しかし、彼が40年間呼び掛けても、アテネは内戦派が政権を握っていたため、終始全く耳を貸さなかった。むしろ引き続きスパルタやテーベ、マケドニアを攻撃し、団結してペルシアと戦おうとはしなかった。

イソクラテスはついにアテネを諦め、マケドニア国王ピリッポス2世にギリシャ統一を公然と呼び掛けた。彼は有名な戦略をピリッポス2世に提案した。「ほかのペルシア総督にペルシア国王の束縛から抜け出すよう説得する必要があります。その前提は彼らに「自由」を与え、さらにそうした「自由」の恩恵をアジア地域に及ぼすことです。なぜなら、「自由」という言葉がギリシャ世界に入ってくると、私たち(アテネ)の帝国とラケダイモン(スパルタ)人の帝国の瓦解を惹き起こしたからです」(「ピリッポスへ」)

これらの話は、自由と民主というアテネに対する後世の人々の印象とは大いに異なる。20年後、ピリッポスの息子アレクサンドロス大王はイソクラテスの戦略と考え方に従ってエジプトとペルシアを征服し、大ギリシャ植民地帝国を打ち立てた。ただ、アレクサンドロス大王の師はイソクラテスではなく、アリストテレスだった。アリストテレスは「大ギリシャ」の道を、イソクラテスよりもさらに遠くまで進んだ。

(二)“希腊帝国”的两副面孔

亚里士多德生于马其顿辖下的色雷斯小城邦,是雅典人眼里的蛮族地区。

亚里士多德虽然身在蛮族,却心在雅典。17岁的他独身一人投奔雅典柏拉图学院。他是柏拉图最优秀的弟子,一度有望成为接班人。但柏拉图逝世时,却将学院交给了亲侄子而不是他。最重要的原因是,亚里士多德是个外邦人。他在雅典不能拥有合法财产(土地),更不能参与政治,因为他没有“公民权”。按照法律,拥有雅典公民权的必须父母都是雅典人。法律把希腊最伟大的智者和雅典分开了;把所有不产于雅典却愿意忠于雅典之士和雅典分开了。有意思的是,这条法律正是民主政治楷模伯利克里颁布的。

亚里士多德离开了雅典,投奔了马其顿,担任亚历山大的老师。他按照希腊文明的最高标准塑造着亚历山大。他让14岁的少年喜爱上了希腊文学与荷马史诗,并对生物学、植物学、动物学等广阔的知识产生热情。更重要的还是政治思想。亚里士多德为教育亚历山大专门写了《论君主》和《论殖民地》。黑格尔说,亚历山大的精神和事业的伟大正是来自亚里士多德深刻的形而上学。

亚历山大一边残酷征服,一边传播希腊文明。他在非洲、西亚、中亚和南亚建立了大量拥有竞技场和神庙的希腊化城市,用博物院和图书馆建造科学文化、哲学艺术的殿堂。他甚至还把亚洲的动植物标本源源不断送回给正在雅典办学的亚里士多德做研究。之后的拿破仑远征埃及时也带上了大量考古学家,最终发现了罗塞塔石碑,开启了埃及学。西方帝国主义暴力征服+文明传播的方式,是亚里士多德发明的。

亚里士多德对亚历山大提出要求,“做亚洲人的主人,做希腊人的领袖。”伊索克拉底也曾对腓力说,“说服可用于希腊人,强迫可用于蛮族人”。这正是“希腊帝国”的精髓一一内部是民主, 外部是殖民;上面是公民,下面是奴隶。这种双重标准的希腊式帝国,是日后欧洲帝国的精神原型与政治模板。

(二)「ギリシャ帝国」の二つの顔

アリストテレスはマケドニアの管轄下にあるトラキア地域に生まれた。そこはアテネ人から見ると蛮族の地域だった。

アリストテレスは蛮族に身を置いていたが、心はアテネにあった。17歳の時、彼は一人でプラトン学院にいった。彼はプラトンの最も優秀な弟子であり、一時的には後継者として期待されたこともあった。しかし、プラトンは死去した時に、学園を彼ではなく、自分の甥に任せた。一番の理由はアリストテレスが外国人だったことだ。彼には「公民権」がなかったため、アテネで合法的な財産(土地)が所有できず、政治にも参加できなかった。法律によれば、両親共にアテネ人でなければアテネ市民権を持つことができなかった。法律はギリシャの最も偉大な知者をアテネから切り離した。また、アテネ以外で生まれながらも喜んでアテネに忠誠を尽くそうとする全ての有識者をアテネから切り離した。興味深いことに、この法律は民主政治の模範であるペリクレスが発布したのである。

アリストテレスはアテネを離れてマケドニアに身を寄せ、アレクサンドロスの教師になった。彼はギリシャ文明の最高の基準でアレクサンドロス大王を育てた。彼の教育によって14歳の少年はギリシャ文学やホメーロスの叙事詩を愛読し、生物学、植物学、動物学などの知識を情熱的に学ぶようになった。それ以上に重要なのはやはり政治思想だ。アリストテレスはアレクサンドロス大王を教育するために特に『王道論』『植民論』を書いた。アレクサンドロス大王の精神と事業の偉大さはアリストテレスの深い形而上学から来ているとヘーゲルは指摘した。

アレクサンドロス大王は容赦なく征服しながらギリシャ文明を広めた。アフリカ、西アジア、中央アジア、南アジアに競技場や神殿を備えたギリシャ型都市を大量に建設し、博物館と図書館で科学、文化、哲学、芸術の殿堂をつくり上げた。またアテネで学校を経営していたアリストテレスアの研究のためにアジアの動植物の標本を送り返し続けた。その後、ナポレオンはエジプト遠征の際にも多くの考古学者を連れて行き、ついにロゼッタ・ストーンを発見してエジプト学が始まった。西洋の帝国主義の「暴力的征服+文明の伝播」という方式はまさにアリストテレスに起源する。

アリストテレスはアレクサンドロス大王に「アジア人の主人になり、ギリシャ人の指導者になる」ことを求めた。イソクラテスもかつてピリッポス2世に「説得はギリシャ人に、強要は蛮族に用いてよい」と述べた。これこそ、内部が民主で外部が植民、上部が公民で下部が奴隷という「ギリシャ帝国」の精髄だ。こうしたダブルスタンダードのギリシャ式帝国が後日の欧州帝国の精神的な原型、政治的なひな型である。

(三)统一与自由的悖论?

历史的发展和他们的设想不一样。

公元前338年爆发喀罗尼亚战争。雅典不服马其顿,起兵挑衅,被马其顿打得大败。马其顿乘胜组织科林斯同盟,并开始进军波斯。得到这个消息的时候,伊索克拉底己经98岁了。他看见运送回来的雅典士兵的尸体,绝食身亡。

他的“大希腊”设想,蕴含着一个无法解决的矛盾一一马其顿拥有强力,如何保证它对雅典只用“说服”而不用杀戮?反过来,善于雄辩的雅典,又岂能甘心被马其顿“说服”?死于马其顿阵前的雅典青年尸体,使他明白了日后仍会重复的悲剧。他既珍视自由,又渴望团结统一。统一带来的暴力,会破坏自由。但自由产生的混乱,又会破坏统一。

伊索克拉底死后,希腊城邦再无团结。希腊大军远征前夜,腓力刚死于暗杀,底比斯就闻声而叛;亚历山大刚死于巴比伦,雅典就又揭竿而起;最后,当马其顿与罗马入侵者决战时,希腊城邦竟给了该王国背后致命一击。即便马其顿将希腊的半岛文明拓展成世界文明,但希腊城邦宁可同毁于外人也不买这个账。

美国古史学家弗格森总结说,希腊城邦不可能融合。“希腊城邦是一个有着独特内在构造的单细胞有机体,除非进行再分割,否则无法发展,它们可以无限制地复制同类。但这些细胞,无论新旧,都无法联合起来,形成一个强大的民族国家。”

因为,希腊城邦政治的根基,不是民主,而是自治。城邦自身可以选择任何政治制度,但绝不服从外来的权威。有权力决定政治制度的,只能是城邦内的世居者。“绝对自治”意味着“绝对地方主义”,让统一变得不可能。希腊城邦不只反对领土国家,连马其顿组建联邦也反对。到整个希腊世界被罗马征服之前,他们都没有演化出一套大小城邦都满意的“联邦制”。城邦的利益定要凌驾于共同体利益之上。

(三)統一と自由のパラドックス

歴史の発展は彼らの構想とは異なっている。

紀元前338年、カイロネイアの戦いが勃発した。アテネはマケドニアに服さず、兵を挙げて挑発したが、マケドニアに大敗した。マケドニアは勝利に乗じてコリントス同盟を組織し、ペルシアに進軍した。この知らせを受けたとき、イソクラテスはすでに98歳だった。送り返されてきたアテネ兵の遺体を見た後、彼は絶食による死を選んだ。

彼の「大ギリシャ」構想には解決しようのない矛盾があった。どうすれば強い力を有するマケドニアにアテネに対して「説得」だけを行い、殺害はしないようにできるだろうか。逆に、雄弁なアテネは、マケドニアに「説得」されることを喜んで受け入れるだろうか。マケドニアとの戦場で死亡した青年らの死体によって、彼はこれからも悲劇が繰り返されることを理解した。彼は自由を大切にしながらも、団結と統一を渇望した。統一がもたらす暴力は自由を破壊する可能性があった。ただ、自由が生む混乱もまた、統一を破壊する可能性があった。

イソクラテスの死後、ギリシアポリスは二度と団結しなかった。ギリシャの大軍の遠征前夜、ピリッポスが暗殺された知らせを聞いて、テーベはすぐに離反した。アレクサンドロス大王がバビロンで死ぬと、アテネは反乱を起こした。最後にマケドニアがローマの侵入者と決戦した際、ギリシアポリスはあろうことか背後からマケドニアに致命的な一撃を加えた。マケドニアがギリシャの半島文明を広めて世界文明にしたとはいえ、ギリシアポリスはむしろ共によそ者に破壊されようともその権威を認めなかった。

米国の歴史学者ファーガソンは次のように総括している。「ギリシャポリスは独特の内在的な構造の単細胞の有機体で、再分割を進めない限り発展しようがなく、それらは無制限に同じような都市を複製できた。しかし、それらの細胞は新旧を問わず、連合して一つの強大な民族国家を形成することはできなかった。」

なぜなら、ギリシャのポリス政治の基盤は民主ではなく自治だったからだ。ポリス自身はいかなる政治制度も選択できるが、決して外来の権威に服従することはない。政治制度を決定する権力を持つのは、代々ポリスに住んでいる人達だけだ。「絶対的な自治」は「絶対的な地方主義」を意味し、統一を不可能にした。ギリシャポリス領土国家に反対しただけでなく、マケドニアが同盟を構築することさえも反対した。ギリシャはローマに征服されるまで、大小のポリス全てが満足する「連邦制」には進化できず、ポリスの利益は終始一貫して共同体の利益の上にあった。

(四)战国的“合”和希腊的“分”

对“分”与“合”,战国与古希腊的政治观念完全不同。

中国上古时代也曾经有过万邦林立、一城一国的局面(执玉帛者万国)。到周初还剩一千八百个部落方国。但最终这些城邦没有长期分立,而是形成了地区性王国,进而发展成统一王朝。表面上看,西亚北非的古老文明如苏美尔、埃及和波斯也是如此。其实不一样。亚非古国靠的是 “神权”,中国靠的是世俗伦理共识。

夏商周时的邦国世界中,始终存在一个名义上或实际上的共主。谁能当共主,取决于谁拥有唯一的天命。天命同时包括了武力和道德。谁能既强大又保民,谁才能拥有天命。否则,天命就会转移。就会发生殷革夏命,周革殷命。即便在战国时代,天命也是唯一的。战国七雄和诸子百家不管怎样争斗,都认为只能有一个秩序,分治不应长久。而同时代的希腊城邦世界不存在共主,只有不同的联盟互相斗争而从不认为存在一个“共同的秩序”。

从城邦之间的关系来看,周礼规定一国发生瘟疫灾荒,其他国家要借粮赈灾;一国有喜事丧事,各国要前往庆贺哀悼。这些责任是强制性的,由天子维持。霸主也要维持这套规矩才能称霸。这就强化了邦国之间同属“华夏世界”的认同。而希腊城邦之间没有建立责任关系。即便是从母邦殖民出去的新城邦,对母邦也没有责任义务,甚至经常反戈一击。即便在希波战争时,希腊人共同身份也只起到微弱作用。

两种文明根性塑造了两种不同的道路。

西方不断走向分。从地域上分,从民族上分,从语言上分。其间也有统一的努力,如罗马的努力,基督教的努力。但分的趋势占据主流,最终归结到了个人主义和自由主义。

中国则不断走向合。从地域上合,从民族上合,从语言上合,其间也有分离的时期,比如王朝更替,比如游牧民族冲击,但合的趋势占主流。造就了中华文明的集体主义。

中华文明并不是没有“分”的概念,但并不是“分治”,而是“分工”。荀子说,人体力弱小,何以能超越禽兽而生存?因为人能组织成集体。组成集体的关键在“分工”。即确定不同的社会角色,但要对彼此承担起责任。只要分工符合“礼义”,就能整合社会。因此,分是为了和,和是为了统一,统一则多力,多力则强大,强大则能够改造自然。

(四)戦国時代の「合」とギリシャの「分」

「分」と「合」について、戦国時代と古代ギリシャの政治的概念は全く違う。

中国の上古時代にも多くの国が林立し、一城が一国である状況があった( 玉帛を執る者、万国なり)。周の初めになってもまだ1,800の部落の国が残っていた。しかし、これらの都市国家は結局長期的には分立せず、地域王国を形成し、さらに統一された王朝に発展した。表面的には、シュメール、エジプト、ペルシアなどの西アジア・北アフリカの古代文明も同様のように見えるが、実は違う。アジア・アフリカの古代国が頼りにしたのは「神権」であったが、中国は世俗的、倫理的な共通認識を頼りにしていた。

夏・商・周の邦国の世界には、名義上の、あるいは実際の宗主国が常に存在していた。誰が宗主国になれるかは、誰が唯一の天命を持つかにかかっている。天命は武力と道徳を同時に含んでいる。強くて民を守ることができるからこそ、天命を持つことができる。さもなければ、天命は移り、殷が夏の革命を行い、周が殷の革命を行うようになる。戦国時代であっても、天命は唯一であった。戦国七雄と諸子百家はいくら争っても、末永く分治すべきではないという一つの秩序しか認めなかった。しかし、同時代のギリシャのポリス世界には宗主がおらず、異なる同盟だけが互いに衝突し、「共同の秩序」が存在するとは考えなかった。

都市国家間の関係から見ると、周礼では一国で疫病の災難が発生したら、他の国は食糧を貸して救済しなければならないと、一国に冠婚葬祭があると、各国は祝賀もしくは哀悼に行かねばならないと決められていた。これらの責任は強制的であり、天子により維持される。覇者もこれを維持してこそ制覇できる。これにより各国の同じく「華夏世界」に属するという認識を強化した。ギリシャのポリス国家の間には責任関係がなかった。たとえ母邦から植民した新しい都市国家であっても、母邦に対する責任や義務はなく、時々反撃することさえあった。ギリシアとペルシアの戦争のときでも、ギリシャ人としての共通のアイデンティティの果たす役割は少なかった。

2つの文明の性質は2本の異なる道を形作った。

西洋は常に分裂のへ向かった。地域から、民族から、言語から分裂していった。その間、ローマによる取り組みやキリスト教による取り組みなどの統一への取り組みもあった。しかし、やはり分裂傾向が主流で、最終的には個人主義と自由主義に行き着いた。

中国は常に統合へ向かった。地域から、民族から、言語から統合に向かい、その間には王朝の交替、遊牧民族の攻撃といった分離の時期もあったが、統合の傾向が主流だった。これは中華文明における集団主義を作り上げた。

中華文明に「分」という概念がないわけではないが、あるのは「分治」ではなく「分業」だ。荀子は次のように述べている。体力が弱い人間は、どうすれば禽獣を超越して生きることができるのだろうか?人は集団を作ることができるからだ。人の集団形成において肝心なのは「分業」だ。即ち、異なる社会的役割を決めるが、互いに責任を負わなければならないということだ。分業が「礼義」に合っているなら、社会を統合することができる。したがって、分かれることは和のためであり、和は統一のためで、統一したら力が増し、力が増したら強くなり、強くなれば自然を改造することができるのだ。

(五)为什么亚氏思想塑造了后世西方文明,却无法征服雅典?

亚里士多德比伊索克拉底多活了十五年。

亚历山大辉煌远征时,师以徒贵,亚里士多德荣归雅典,开办了“吕克昂学院”专门收罗和自己一样外邦出身的思想家并很快压过了柏拉图学院。雅典人骂亚里士多德是文化侵略的急先锋。

亚里士多德在此建立了人类历史上最广博、最统一的知识体系,写下了被西方政治学奉为圭臬的名著《政治学》,其中有大量对城邦政治的反思。他严厉批评了其中的暴民政体是不以法律为依归的另一种专制。类似于极端民粹主义。

他还提出了“绝对王权”的概念。即“由君主一人代表整个氏族或整个城市,全权统治全体人民的公务,犹如家长对于家庭的管理。” 他认为,“整体总是超过部分,这样卓绝的人物,本身恰恰是一个整体,而其他的人们便类于他的部分,惟一可行的办法就是大家服从他的统治,不同他人轮番,让他无限期地执掌治权。” 批评亚里士多德的人说,“绝对王权”是为了亚历山大量身定做的政治理论,说明他热爱权力甚于真理。

亚历山大死后,亚里士多德立即遭到反攻倒算。要面临雅典公民大会的审判,借口是他“亵渎神灵”。上次这样被审判而喝下毒芹汁的,是他的师祖苏格拉底。

亚里士多德不愿重蹈覆辙。他逃匿到马其顿的维亚岛上,一年后怏怏去世。他的逃跑遭到满雅典的嘲笑。

(五)アリストテレスの思想は後世の西洋文明を形作ったのに、なぜアテネは征服できなかったのか?

アリストテレスはイソクラテスより十五年長生きした。

アレクサンドロス大王の輝かしい遠征の時、弟子のおかげで貴くなったアリストテレスはアテネに戻り、「リュケイオン学院」を開いて、自分のような異邦人の思想家ばかりを集め、すぐにプラトン学院を圧倒した。アテネ人はアリストテレスを文化侵略の急先鋒だと非難した。

アリストテレスはここで人類歴史上最も幅広く、最も統一された学問体系を構築し、西洋政治学から規範と見なされる名著『政治学』を書いたが、その中には大量の都市国家政治に対する反省があった。彼は暴徒化した政体を、法律に依存しない別のタイプの専制だと厳しく批判した。極端なポピュリズムに似ていた。

また「絶対王権」の概念も打ち出した。「君主一人が氏族や都市全体を代表し、一家の長による家庭の管理と同じように、国民全体の公務の全権を掌握して統治する」ということだ。彼は、「全体は常に一部分を超えている。このように卓絶した人物は、それ自体が全体であり、他の人々は彼の一部分のようなものである。唯一実行可能な方法は、誰もが彼の統治に服従し、彼は他人と交替せず、無期限に統治権を握ることである」と考えた。アリストテレスを批判した人達は、「絶対王権」はアレクサンドロス大王のために作られた政治理論であり、彼が真理よりも権力を愛することを示していると述べた。

アレクサンドロス大王の死後、アリストテレスは反撃を受け、逆清算された。彼はアテネ市民大会の裁判にかけられたが、その理由は彼の「神への冒涜」だった。過去このような審判を受け、有毒なヘムロックを飲んだのは彼の師であるソクラテスだった。

アリストテレスは同じ失敗を繰り返したくなかった。彼はマケドニアのエウボイア島に逃げ込み、一年後に病死した。逃走した彼をアテネは嘲笑った。

(六)希腊帝国的堙灭及其教训

亚里士多德死后,亚历山大帝国内部分裂,三大继承者王国相互征伐,不断再分裂再独立。这不是因为亚历山大死得早。在他没死时,除了推动了一部分欧亚上层通婚外,没有对征占的庞大帝国进行过内部政治整合,更没有进行过基层政权建构。

马其顿帝国的扩张方式,是在所到之处创建希腊式的自治城市。这种“自治”是对留居该城市的希腊殖民者而言,不包括被征服的土著社会。在每个新征服的亚洲城市,亚历山大都把自己的“王友”派驻到该城市当总督,只管军事和税收,不管民政。

中国战国的基层政权组织方式则完全不同。出土秦简显示,秦国每扩张一处,都要建立从县到乡的基层政权组织。其县乡官吏要处理所有的民政,组织垦荒、统计户口、征收税赋,记录物产,再把这些信息输送到秦都咸阳编册保存。秦吏也不在一地久留,而是数年一轮换。

如果只要金钱与税收,不服就派军队镇压。一时可以最小的行政成本获取最大的财富,但也放弃了对当地社会的长远整合。中央强大时尚可,一旦中央权力衰弱,离心力就产生了,城市纷纷脱离控制。亚历山大帝国的分崩离析是必然的。

这不能怪亚历山大。因为即便是他的导师亚里士多德,也从未设想过超大规模政治体的理论制度。他的“绝对王权”概念,只是从一个城邦的角度。在那个时代,并不是没有超大政治体可供研宄,如埃及和波斯。但亚里士多德认为它们都是“非政治”的,是不先进的,只有希腊城邦政治才能叫做“政治”。

后人辩解说,虽然作为政治实体的希腊统一国家消失了,但作为文化精神的希腊,在罗马的躯体上得以永存,成为欧洲精神的母体。国家灭亡无所谓,文化永存己足够。

这要听听当时的希腊人民怎么说。希腊邦国灭亡过程中,一大批希腊高级知识分子作为人质被送入罗马贵族家庭当老师。其中就有著名历史学家波利比乌斯。他在名著《历史》中问道,“为什么希腊不断瓦解,罗马却能一直强大”?他那时心中想要的,恐怕不是仅存精神的希腊,而是一个实体与精神共存的希腊。

“自由优先”还是“秩序优先”

这几位思想家的命运,说明每一个文明内部,每一种精神追求,都蕴含着巨大矛盾。在人类社会进程中,不存在某种能解释一切的理论,不存在某种普世的绝对原则。每一个致力于改变真实世界、而不是构建乌托邦的思想家,终有一刻,都会面临着不可自洽、相反相成的痛苦。但这痛苦和矛盾中,也孕育着相辅相成的未来之路。要敢于不向任何一种绝对性低头,要敢于在不可能处创造可能。

当今东西方文明观念的最大纠结,是“自由优先”还是“秩序优先”。这分别是希腊文明和中华文明的核心价值观。

希腊人对自由的热爱,让“希腊人”从种族的名字变成了“智慧”的代名词。中国人对秩序的热爱,则让中华文明成为了唯一同根同文并以国家形态持续至今的文明。

秩序优先带来的稳定,自由优先带来的创新,哪个更值得追求?这涵盖了哲学、政治学、宗教学、伦理学的无穷争论。我们不需要定论。保留这些不同的本身,恰好为文明日后的互鉴互融留下可能。多元与矛盾并存,会为人类文明基因库留下更多种子。对自由优先与秩序优先的分歧,不但不应成为中西文明交流的障碍,反应成为中西文明交流对话的基础。一方面,技术发展进入爆炸式创新的前夜,让我们深刻认识到自由带来的创造力;另一方面,非传统安全危机频繁爆发,也让我们重新认识到秩序的宝贵。对于自由来说,要探讨如何加强秩序,以防止瓦解;对于秩序 来说,要探讨如何加强自由,以激发创新。问题不是在自由和秩序中二选一,而是在哪个环节加强自由,在哪个环节加强秩序。

过去,验证一个理念,甚至需要数百年时间,数代人去重复错误。而今天,在技术革命下,几年之间就能看清来龙去脉。唯有懂得反省反思、不断包容、和谐共生、互鉴互融的文明,才是真正可持续发展的文明。为此,中国与欧洲真应该坐下来好好谈谈心。

(6) ギリシャ帝国の滅亡とその教訓

アリストテレスの死後、アレクサンドロス大王の帝国は内部から分裂し、三大継承王国は互いに征伐し合い、分裂しては独立することを繰り返した。これはアレクサンドロス大王が早くに他界したからではない。彼は生前、一部のユーラシア上層部の通婚を推進したほか、征服された巨大帝国に対する内部の政治的統合も、末端行政機関の構築も行わなかった。

マケドニア帝国の拡張方式は、行く先々でギリシャ式の自治都市を築くことだった。このような「自治」はそこに留まるギリシャ人入植者に対するもので、征服された先住民社会は含まれていなかった。新しいアジアの都市を征服するたびに、アレクサンドロスは自分の「王友」を当該都市の総督として派遣したが、軍事や税務だけを扱い、行政事務は管理しなかった。

中国の戦国における末端行政機関の構築方式は全く異なった。出土された秦の簡によると、秦が勢力範囲を拡大するたびに、その場所に県から郷までの末端行政機関を樹立していた。各県・郷の官吏は土地の開拓の組織、戸籍の集計、税の徴収、物産の記録を行い、これらの情報を秦都咸陽に送り冊子を作成して保存するまでの全ての行政事務を処理しなければならなかった。また秦の官吏は一か所に長く留ることなく、数年ごとに交代した。

金銭と税金だけを取り、不服なら軍隊を派遣して鎮圧する。一時的には最小の行政コストで最大の富を得ることができるが、地域社会への長期的な統合は断念されてしまう。中央が強い時期はともかく、中央権力が衰えると遠心力が生じ、都市はみな統制から離脱してしまう。アレクサンドロス大王の帝国の解体は必然だった。

これをアレクサンドロスのせいにしてはいけない。彼の師であるアリストテレスでさえ超大規模な政治体の論理的制度を想定したことがなかったからだ。彼の「絶対王権」という概念は、だた都市国家の視点だけにとどまっていた。その時代に研究できる超大規模な政治体がないわけではななかった。例えばエジプトやペルシアがそうであった。しかし、アリストテレスはこれらが「非政治的」であり、先進的ではないもので、ギリシャポリスの政治だけが「政治」と呼べると考えていた。

後世の人々は、政治的実体としてのギリシャ統一国家は消えたものの、文化精神としてのギリシャはローマの国土で永遠に存続し、ヨーロッパ精神の母体になったと弁解している。国が滅びることは構わない,文化が永続できれば十分である。

これに関しては当時のギリシャ人の話を聞くべきである。ギリシャポリスの崩壊の過程で、多くのギリシャの知識人が人質に取られ、ローマの貴族の家庭に教師として送られた。その中には有名な歴史学者のポリビウスもいた。彼は名著「歴史」の中で、「なぜギリシャは崩壊したのに、ローマはずっと強大だったのか」と質問した。当時彼が望んでいたのは、おそらく精神だけが残っているギリシャではなく、実体と精神が共存するギリシャであっただろう。

「自由優先」か「秩序優先」か

この数名の思想家の運命は、全ての文明の内部と全ての精神の追求はいずれも巨大な矛盾を含んでいることを示している。人間社会の発展のプロセスの中には、全てを解釈できる理論は存在しないし、普遍的な絶対原則も存在しない。ユートピアを構築するのではなく、現実の世界を変えることに専念する全ての思想家は、いずれは自己矛盾に陥り、相反しながらもお互いを成立させる痛みを抱えることになる。しかし、その苦痛と矛盾には相互に補い合って成し遂げる未来も育まれている。どんな絶対的なものにも屈しない勇気やず、不可能なところで可能を作り出す勇気を持たなければならない。

現在の東西文明の概念における最大の葛藤は、「自由優先」か「秩序優先」かである。これはそれぞれギリシャ文明と中華文明の核心的価値観である。

ギリシャ人の自由を愛する気持ちは、「ギリシャ人」という人種の名前を「知恵」の代名詞に変えた。中国人の秩序を愛する気持ち、中華文明を唯一の同根かつ同文であり、国家の形で現在まで続く文明にした。

秩序優先がもたらす安定、自由優先がもたらす革新、より追求する価値があるのはどちらなのか?これは哲学、政治学、宗教学、倫理学を網羅した果てしない論争になる。断定する必要はない。これらの違いを残しておくこと自体が、今後の文明の相互学習と相互融合の可能性を作り出すことになる。多元性と矛盾が共存することは、人類文明の遺伝子プールにより多くの種子を残すだろう。自由優先と秩序優先に関する意見の不一致は、中西文明交流の壁にならないだけではなく、反対に中西文明交流の対話の基礎になるべきである。一方では、技術発展が爆発的な革新を始める前に、我々は自由がもたらす創造力を深く認識した。もう一方では、非伝統的な安全の危機が頻繁に発生することから、我々は秩序の大切さを改めて認識した。自由の面では、いかに秩序を強化し、崩壊を防ぐかを検討しなければならない。秩序の面では、どのように自由を強化し、革新を促進するかを検討しなければならない。問題は、自由と秩序の二者択一ではなく、どのプロセスで自由を加えるべきで、どのプロセスで秩序を強化するべきかということだ。

これまで、一つの理念を検証するには、数世代が数百年もかけて試行錯誤を繰り返す必要があった。しかし、今は技術革命の下で、何年かの間で物事の経緯のすべてを見極められる。反省・再考し、常に受け入れ、調和共生し、相互学習・相互融合のできる文明こそが、真の持続可能な発展の文明である。そのため、中国とヨーロッパは実際に腰を下ろし話し合うべきだ。

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